ドラマ「パリの恋人」「サイン」「町の弁護士チョドゥルホ」などに出演し、国民的俳優と呼ばれるパクシニャンさんを紹介します。
出演料未払いの訴訟を起こし、無期限のドラマ出演停止を命じられましたが現在は?
プロフィール、ドラマ出演停止措置は現在?、演技力評価、ロシア留学の理由、結婚のなれそめ、娘と嫁画像、インスタグラムをまとめました。
(トップ画像https://entertain.naver.com/より)
パクシニャンのプロフィール
박신양 パク・シニャン (朴新陽)
(シンヤンと書いてシニャンと読む)
1968年11月1日生まれ
177㎝
68㎏
B型
東国大学演劇学学士
1996年映画「ガラス」でデビュー
1986年演劇デビューし、大学生時代は「一生を舞台にささげる」というほど没頭していました。
その後大学院に合格しましたが、共に受験した友達はみんな不合格で、また学校生活も思うように充実したものではありませんでした。
大学院は中退し、親しかった友達と共に大学が姉妹提携していたロシアの大学へ留学。(後述)
帰国後は映画界に進出します。
演劇に一生を捧げるつもりでいましたが、有名な演目にも関わらず観客が10人ほどしかいないという舞台を見て、多くの人に演技を見てもらいたいと思うようになったのが理由だとか。
大学の同期であるヤンユンホ監督と撮ったのが最初の作品で、その後いくつか助演出演し1996年同監督映画「ガラス」でスクリーンデビュー。
「大型新人」と呼ばれ、映画界の注目を浴びました。
この作品で百想芸術大賞と青龍映画賞新人男優賞を受賞。
同年ドラマ「リンゴの花の香り」でもデビューしますが、主演を務めたのは演技力を高く買ったキムヘスさんの推薦だったそうです。
映画「ガラス」が公開される前だったため、完全に無名の新人でした。
1997年、1998年と恋愛映画「手紙」「約束」を連続大ヒットさせ、人気賞と主演男優賞を席巻。
1998年ドラマ「私の心を奪ってみて」で青春スターと呼ばれるようになりました。
そしてパクシニャンと言えば2004年ドラマ「パリの恋人」!
視聴率57.6%を記録してシンドロームを巻き起こし、演技力とスター性を認められました。
2007年ドラマ「銭の戦争」は好評で当初の予定より4話延長。
この延長分の出演料を巡って訴訟問題に発展し、以降空白期があります。
2011年「サイン」はケーブルテレビで放送される予定でしたが、パクシニャンさんが主演に決まると地上波放送に変更。
パクシニャンさんは法医学者になりきるために、実際の法医学者の方々と生活して何度か解剖も見学し、その家族にまで会って、役作りをしたのだそうです。
2016年「町の弁護士チョドルホ」のドラマ出演は5年ぶりとなりました。
この作品で「ジャンルがパクシニャン」という言葉まで生まれるほど愛され、KBS演技大賞最優秀賞を受賞しました。
バラエティ番組には何度かゲスト出演していましたが、2016年、俳優志望生に演技トレーニングをさせるという主旨の「tvN芸能俳優学校」にレギュラー出演。
プロデューサーは先生にはパクシニャンしかしないと思ったそうです。
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パクシニャンドラマ出演停止は現在解禁?
2007年ドラマ「銭の戦争」は高視聴率により、当初の予定より4話延長されました。
この4回分の出演料としてパクシニャンさんは6億2千万ウォン(約6200万円)を請求しますが、制作会社が支払った額は3億4千万ウォン不足しているとして、訴訟を起こしています。
当時の相場から言っても破格の出演料で、訴訟を起こしてまでそれを請求するパクシニャンさんはイメージダウンとなってしまいました。
芸能記者の話によると、ドラマの延長は何かしらトラブルがつきものだとか。
俳優は決められたスケジュールの中で仕事をしているため、延長されては都合が悪いし、放送局は人気にあやかって長く続けてほしいとのことで、制作会社は両社の板挟みとなってしまった末の4回延長でした。
ドラマ延長で起きた問題が大きなニュースにならないのは、円満に解決しようと見逃したり、誰かのメンツを立てるために俳優が我慢したりとそういうことが日常的にあるのでしょう。
そこに立ち向かったパクシニャンさんは大きなイメージダウンとなってしまいました。
訴訟の結果、パクシニャンさんが勝訴して出演料を受け取りますが、その代わりドラマ制作会社協会から出演禁止となり、しばらくドラマでは空白期があります。
この訴訟後のインタビューで、
Q.「無期限出演停止処分を受けましたが、その後どのようにお過ごしでしたか?」
パクシニャン「それと関係なく、シナリオを選びながら過ごした。みんなが言ってるからといってすべてが真実ではない。私が言いたいことを一言だけ言うとすれば、約束は守られる世の中でなければならないということ。」
Q.「出演料に関して勝訴したが、この訴訟であなたが失ったものも多いのでは?そこまでしなければならない理由は?」
パクシニャン「もしこれをそのまま見過ごしていたら、後輩たちに示しがつかない。一生懸命演技しろ、でもお金は受け取れないよ、失望するかもしれないけどしょうがないよ、でもそれが芸術だから頑張れってそう言えと?自分はそれはできない。だからやった。約束を守れない世の中ではだめだ」
しかしこの期間中もドラマのオファーはずっとあったようで、200ものシナリオの中から「サイン」を選ぶこととなりました。
2011年「サイン」を手掛けた制作会社ゴールデンサムはドラマ制作協会加盟会社ではないとのことで出演が可能だったそうです。
しかしこの無期限出演停止措置というのはいつ解除されるのでしょうか?
調べたところどこにもそういった発表はありませんでした。
2016年「町の弁護士チョドゥルホ1」の制作会社はSM C&C、同ドラマ2はUFOプロダクションで、両社とも加盟会社ですので、それをみると出演停止は解除された模様です。
「出演停止解除」とわざわざ公表されていませんが、「町の弁護士~」は「パクシニャンのドラマ復帰」と言われて
「どこに行っていたわけではないから、復帰ということもない。私はいつも堂々としていた」
と話しています。
パクシニャンの演技力評価は?
国民的俳優と呼ばれるパクシニャンさんへは演技力を絶賛するコメントがいくつもありましたので紹介します。
「演技力があまりに優れているため、目立たなくてもいい場面でも一人とびぬけて見える。」
「パリの恋人」キムウンスク作家
「キャラクターを分析して再現する能力が韓国最高」
先輩俳優イウォンジョン
「すでにトップ俳優というタイトルを持っていらっしゃるのに演技に臨む姿を見ると初めて演技する新人俳優のように努力されていて尊敬している。その位置なら安住することもできるのに常に配役を心配している様子に驚いた」
2007年「銭の戦争」で共演ムングニョン
パクシニャンがロシアへ留学したのはなぜ?
パクシニャンさんは大学卒業後、大学院を中退してロシアへ留学。
大学がロシアの大学と姉妹提携をしていたことで、選択肢の一つに挙がったようです。
27歳(韓国年齢)の時だったとのことですので、おそらく1993年ごろかと思われます。
1991年にソビエト連邦が崩壊して間もない時代・・・。
ロシアを選んだ理由は「演技論」の発祥地はロシアだからというもののほかに、
「国の体制が崩壊する中で芸術をする人は何を考えているのか気になった」
「言葉も通じない国で自分は生き延びることができるのかに挑戦したかった」
というエピソードも語られています。
ロシアにはアルファベットを覚えただけの状態で行き、ボディーガードのバイトをしたりできるほど言葉が上達したようです。
ロシアでは気候の違いから体調を崩すことがよくありました。
また演技をやめようかと悩んだこともあったそうです。
ロシアの後はインドに行こうかと考えていたそうで、
「当時、自分は何者なのか。どうやって人生を生きていくのかが大きなテーマだった」
と話しています。
20代後半は芸術とは何か、自分は芸術を扱えるのかについて悩み続けたそうです。
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パクシニャンの結婚のなれそめ
奥さんのペクヘジンさんは、1991年に国内に初めてハーゲンダッツアイスクリームを展開させた財閥のお孫さん。
そして奥さんのお父さんはノースウェスト航空の国内代理店を運営していた方だとか。
そんなきらびやかな(?)お家柄の奥さんはパクシニャンさんとどのように出会ったのでしょうか?
二人の出会いは釜山のホテル内にあるスポーツジム。
あるイベントに招かれ釜山に行ったパクシニャンさんと、家族旅行で来ていた奥さんは同じホテルに泊まり、そのスポーツジムで出会うこととなりました。
普段から運動好きでジム通いをしていたパクシニャンさんに対して、奥さんは人生で初めて行ったジムだったとのこと。
パクシニャンさんが一目惚れし、自分はこの人と結婚すると直感したのだそうです。
声をかけようかどうか迷っていた時、運動を終えて家族と一緒に出ようとしている奥さんを見て
「今声をかけなければ一生後悔する」
と追いかけて行き、年齢と名前を聞いて、「夕食一緒にどうですか?」と誘ったのが始まり。
その日の夕食は奥さんのご両親と弟さんも一緒でした。
同じホテルに泊まっているため、翌朝も共に朝食を取り、雨の中一緒に海辺を散歩したのだそうです。
こうして出会って6か月後の2002年に二人はゴールイン。
パクシニャンさんは34歳、奥さんはまだ21歳の大学生でした。
婚前妊娠ではないか?というインタビューに、パクシニャンさんはまだ若い奥さんに配慮してノーコメントを貫きましたが結果的にそうだったことで、さまざま批判があったようです。
また奥さんは21歳という若さにもかかわらず、すでに離婚歴がありパクシニャンとは再婚だと言う報道がありました。
それによると、実は奥さんの元彼K氏はアメリカ留学を予定していましたが、当時兵役を終えていなかったためビザを取ることができず、アメリカ市民権を持っていた奥さんは親に内緒で婚姻関係を結び、ビザ取得の一助となったとか。
その後、親にばれて婚姻無効訴訟を経て婚姻関係は解消したとのことです。
パクシニャンさんはすべてを知った上での結婚だったのでしょうが、こんなこともあって結婚当初はさまざまな悪い噂に悩まされました。
2003年に長女パク・スンチェちゃんが誕生。
結婚10年の節目に家族でファッション雑誌に「リマインドウェディング」(結婚を再確認する)広報として家族写真が公開されました。
娘さんは2019年時点で高校1年生です。
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パクシニャンのインスタ
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本文訳:おめでとうございます。2019年第11期奨学生です。
パクシニャンさんは2009年から「パクシニャンFUN奨学会」を運営して、未来の演技・劇作家・公演・芸術の専門家を養成するために毎年3人の奨学生を選抜して授業料を支援しているのだそうです。
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パクシニャンさんは近年絵を描いているそうです。
ロシア留学時代、たまたま入った美術館で一つの絵に心を奪われました。
これまでずっと演技で人々に感動を与えられるように努力してきましたが、近年は絵画で自分の感動を伝えられないかと努力し続けているのだそうです。
最後に
調べるほどに芸術家なんだなと思いました。
インスタにたくさん絵が載せられています。見てみてくださいね!